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考えすぎても動けない。でも、間違った方向に走ってはいけない

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まだまだ暑いですね。エアコンがまだ必要。銀杏の木は色づいてきていますが(焼き鳥屋さんでぎんなん串食べたい)。 さて、今日の一句「暗い部屋 一人佇む 車椅子 医師の診察 元気です」。いかがでしょうか? 訪問診療に行くとなぜか部屋の電気を消して過ごしている方が多くて驚きます。寝ていると眩しいのでしょうが…。昼はしっかり起きていたほうが良いですよね。 チーズがまだ残っているのに、次のチーズを探しに行く理由 さて、今回も読書感想文です。新しいネタがなくてすみません。『 チーズはどこへ消えた? 』という本を読みました。 スペンサー・ジョンソンの著書で、変化にどう対応するかを物語形式で描いた本です。読みやすく、私も1時間ほどで読み終えました。中学3年生の子どもも、1〜2時間ほどで読んだと思います。トイレに置いておいて、時々読み返したくなるような本ですね。読んでいて思ったのは、以前読んだ『鬼速PDCA』を、物語にして分かりやすくしたようなワクワクする本だな、ということでした。 ただ、今回考えたかったのは、単純に「変化を恐れずに行動しよう」という話ではありません。医療でも経営でも、考えることは大事です。でも、考えているだけでは何も変わらない。一方で、行動すれば何でもよいわけでもありません。 このバランスについて、少し考えてみました。 考察ばかりしていても、前には進まない 医療の現場では、アセスメントを行い、仮説を立て、検証し、次の判断につなげます。もちろん、十分に考えることは必要です。医学的な判断を誤れば、患者さんに不利益が生じることもあります。何でもすぐに実行すればよいというものではありません。ただ、記録ばかりつけていたり、カンファレンスばかりしていたり、考察を重ねること自体が目的になってしまったら、どうでしょうか。 考えた結果を実際の行動に移さなければ、現実は変わりません。私は、仮説と検証をもっとスピーディーに繰り返すという考え方も、医療において大切だと思います。一度で正解にたどり着こうとするのではなく、必要な情報を集めて判断し、実行し、その結果を見て修正する。そういう進め方です。 『チーズはどこへ消えた?』は、考えているだけで動けない人に対して、行動することの重要性を伝えている本だと感じました。ただし、私は最終的にはバランスだと思っています(保身ですが)。 ただし、間違ったチ...

健康になれないのは、本人の努力が足りないからなのか

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今日の一句「秋風の ふわり舞い込む デイサービス 笑い合う声 漏れ聞こゆ」(美則にて)。どうでしょうか!?なかなか我ながら良い句。さて、今日はクリニックのIDが15000人というキリ番でした~!私が院長になったときは9000番台だったかな? ご愛顧ありがとうございます。 健康になれないのは、本人の努力が足りないからなのか さて、今回も読書感想文。今回の本は、『 銃・病原菌・鉄 』という本を読んでいます。ジャレド・ダイアモンドという著者が、人類の歴史を1万3000年という長い時間軸で捉え、なぜ地域によって社会の発展に差が生まれたのかを考察した本です。まだ上巻を読んだところですが、いろいろと考えさせられましたのでまとめていきたいと思います。 特に印象に残ったのは、人間の能力だけではなく、置かれた環境が社会のあり方を大きく左右するということです。私たちは、健康になれない人に対して、本人の努力が足りないと考えすぎているのではないでしょうか。 人間の努力だけで、結果は決まるのか 糖尿病や肥満症の診療をしていると、生活習慣について考える機会がたくさんあります。食事を見直す。運動する。タバコをやめる。健康のために必要なことはいろいろあります。 ただ、同じように取り組もうとしても、人によってできることは違います。例えば、30分歩くことを考えてみます。30分歩くのは大したことではないと思う人もいれば、それだけで大変だと感じる人もいます。普段から1時間走っている人もいるでしょう。そもそも、本人にとっての努力の量が違うのです。遺伝的な違いもあります。同じように食べていても、体重の変化には個人差があります。 もちろん、だからといって生活習慣を改善する意味がないわけではありません。ただ、結果だけを見て「あの人は努力したから健康になった」「この人は努力が足りないから健康になれない」と簡単に判断することには、少し注意が必要だと思います。 私たちは、本人の努力を評価する一方で、その人がどのような条件の中で生活しているのかも見なければいけないのではないでしょうか。 健康を左右するのは、本人の意思だけではない 医療には「健康の社会的決定要因(SDH:Social Determinants of Health)」という考え方があります。健康は、遺伝や医学的な要因だけで決まるのではありません。所得、教育、...

人徳とテクニック。私が一緒に働きたい人について考えていること

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秋空の 空にきらめく星のした 走る足音 息切れるかな。 すぐ調子にのって歌を作ってみました( 河口慧海さん的:ブログ参照 )。 今日はおやすみをもらって歯医者さんへ。チェック、メンテナンス、ケア質問が中心です。予防にまさる治療なしですからね。 今回のテーマは「採用」です。ちなみに行っている歯医者さんは皆、顔採用!?と思えるくらいの美女揃いです。 (注:最近AIが作ってくれる医者がイケメンすぎて嫌です。院長ではありません。) 「仕事ができる人」と「一緒に働きたい人」 企業の採用担当者に、選考で何を重視するかを尋ねた アンケート がありました。( 「企業の『新卒採用動向』における調査 2025」結果報告 ) 最も多かったのが「人柄や性格」で約6割。次いで「自社への熱意」「思考力や問題解決能力などの汎用的スキル」「採用ポジションへの適性」と続いていました。 資格や専門的なスキルよりも、知識や技術だけでは測れない部分を重視する傾向があるようです。 これを見て、私自身も採用について少し考えてみました。私が一緒に働きたいと思う人は、どんな人なのか。 結論から言うと、ぜいたくではありますが、私は「人徳とテクニック」の両方を持っている人と働きたいと思っています。それに応じれるほどのクリニックであれるのか!? 私が大切にしたい「人徳」 まず、人としての特性です。私は、優しさ・思いやり、清潔さ、明るさ、正直さ、素直さ。こういうものを大切にしています。 これ論語から取っています。仁・清・明・正・直ですね。余談ですが、大正時代の女性の名前が上記5つ+子で出来ていることって多いですよね。昔の人は論語読んでたんだろうなぁと推察しています。 話題が戻りまして、もちろん、医療の仕事ですから、資格や専門的な技術は必要です。ただ、それだけでは「この人と一緒に働きたい」とはならない。むしろ、仕事を一緒にするという意味では、人としての特性のほうが大きいのではないかと思っています。 例えば、素直さ。 これは単に「言われたことを何でも聞く」という意味ではありません。人からアドバイスを受けたときに、一度受け止めることができる。自分のやり方がうまくいかなかったときに、「自分は間違っていたかもしれない」と考えられる。そして、そこから学ぶことができる。 これは仕事をする上で、とても大切な能力だと思います。 「正直さ」...

政治献金が大きくなると、社会はどう変わるのか

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外来は基本的には緊急往診に対応していないのですが、ぼちぼちと対応してしまう今日このごろです。ここらはビジネスモデルが大きく影響するのですが、聞きたい人はお声かけくださいませ。 今回は政治献金のお話です。 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO99099570U6A001C2MM8000/ 結構前ですが、日本医師会の政治献金がニュースになっていましたよね。金額は約2億円。「結構大きな金額だな」と思っていたんですが、今回の日経新聞!アメリカのテック企業や経営者による政治献金の記事を読んでみると、その金額が霞んでしまうような規模でした。 記事では、2025年1月から2026年6月までに、イーロン・マスク氏やアメリカのベンチャーキャピタル関係者らが、合わせて1億8000万ドル以上を献金したとされています。日本円にすると、約284億円! そこで、そもそも政治献金って何なんだろう、と少し考えてみました。 企業が政治にお金を出すことは、そんなにおかしいのか 企業の経営者が、自分たちのお金や影響力を使って政治を支援する。これは、それだけを考えれば、必ずしもおかしなことではないと思っています。企業は営利組織です。自分たちの事業を成長させ、利益を最大化することが基本的な目的です。政治献金によって、自分たちにとってより良い政策や環境が実現する。それによって企業の収益が増えるのであれば、それは一つの投資と考えることもできます。 実際、企業経営をしていると、「この投資によって将来どうなるか」ということを常に考えます。政治への働きかけも、その延長線上にあると考えれば、企業側からすれば合理的な行動なのでしょう。ただ、ここから少し難しくなります。 「三方よし」なら、それでいいのか 企業が儲かる。政治家も政策を実現できる。社会全体も成長する。こういう関係なら、いわゆる「三方よし」と考えることができます。公益資本主義ってやつですね。 問題は、そうならなかった場合です。企業と政治が近づくことで、一部の企業や政治に近い人たちだけが利益を得る。その一方で、そこに関係のない人たちが置いていかれる。そうなると、少し話が変わってきます。 特に気になるのは、短期的な利益を得るために政治を動かして、その利益を得たら終わり、というような関係です。それでは、地域で暮らしている普通の人た...

河口慧海の旅から考えた「知りたい」と「やり遂げる」の力

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入院退院で受け入れ、送り出しと情報提供書を作ったりもらったりと忙しい日々です。ファイナルファンタジーVIIのリメイクを買いたいなぁと思いつつも、そんな時間がない…と諦めがちな今日このごろ。昔は、ミニゲームも楽しめていたのに煩わしさをはんなり感じています。年を取ったということでしょうか。 さて、今回はチベットRPGとも言える河口慧海さんの チベット旅行記 についてです。 命をかけて、知りたいものを見に行く この本を読んで一番強く感じたのは、「ここまでして知りたいのか」ということでした。 慧海は、仏教を学ぶためにチベットを目指します。今の感覚からすると、とんでもない旅です。ヒマラヤの脇を越えていくわけですが、私が勝手に想像していたのは、ものすごい装備をして、トレーニングを積んだ人が登っていくような姿でした。 ところが、実際には現地の服を着た僧侶が山を越えていく。「そんなものなんだ」と、ちょっと驚きました。もちろん高山病にもなって、雪盲症にもなって医者的にはいわんこっちゃない感がありますが。 そして、何よりすごいと思ったのが、慧海の「勉強したい」という気持ちです。法律を破ってでもチベットに入り、命をかけて学ぼうとする。そこまで思える人は、そう多くないですよね。 では、自分だったらどうするか。これは、なかなかできないと思います。命をかけてチベットまで行くことは、私にはできません。というより、私はかなりタイパとかコスパを考えて生活しています。 だから、慧海と自分は、好奇心が強いところは少し似ているけれど、程度が全然違う。根性も全然違います。氷の張った川を裸足で渡るとか、そもそも私は川を歩いて渡らないですからね。橋があれば橋を渡ります。 そのあたりは、今の現代社会では考えにくいような「やり遂げる力」がある人だったんだなと思いました。 「一次情報」を取りに行くということ 一方で、この本を読んで改めて感じたのが、一次情報の価値です。一次情報のことを最近言い過ぎていますね。今は、Googleで検索すれば、世界中の情報が出てきます。Googleマップを見れば、チベットのどこに何があるのかも分かります。実際Googleマップでチベットを見ながら本を読みました。実際はチベットのGoogleマップは少なくてポイントしか見られませんが。動画を見れば、現地の風景を見ることもできます。 それでも、...

「走るのが好きじゃない医者」が、それでも走る理由

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今日は子どもの習い事で送迎が多い日曜日でした。合間に訪問診療中の患者さんの病態報告が来ます。 さて、今回は走ることについてがテーマです。 「走るのが好きじゃない」のに、なぜ走るのか 村上春樹さんの『 走ることについて語るときに僕の語ること 』を読みました。(Amazonリンク) この本を読んでいて、最初に「これは分かるな」と思ったところがあります。走る前、ランニングシューズを履くときの、あの感じです。「今日は家でのんびりしておきたいな」「わざわざきつい思いをしたくないな」正直、そう思うことがあります。 走るのが好きな人なら、そんなことを思わないのかな、と以前は少し思っていました。でも、この本を読んでいると、走ることが好きでも、苦しいとか、面倒だとか、そういう感覚はあるんだなと思いました。 それが、ちょっと面白かった。 一方で、僕は村上さんのようにマラソンを走るところまではいきません。僕が走る目的は、かなりはっきりしています。 健康づくり です。だから、だいたい6km時々10kmとか15kmくらいまで。それ以上、速く走ろうとか、長く走ろうとか、あまり考えていません。 僕のランニングは、かなり「健康に最適化したランニング」ですね。 僕にとって、走ることは「健康づくり」と「本を聴く時間」 走ることには、僕の中では二つの意味があります。 一つは、もちろん健康づくりです。有酸素運動をする。体重をコントロールする。体力を維持する。そういう目的です。 もう一つが、本を聴く時間です。僕はAudibleを使っているので、走りながら本を聴いています。これが意外といいんですよね。小説を聴いていて、ちょうど面白いところに入ると、「もう一周走ろうかな」と思うことさえあります。走ること自体はそれほど好きじゃないのに、本を聴くためならもう少し走れる(笑)考えてみると、僕は結構な活字中毒なのかもしれません。 最近は、NotebookLMを使って医学雑誌などを音声化して、それを聴きながら走ることもあります。そうすると、「これは診療にも使えるんじゃないか」「この病態について、患者さんに説明するときに使えそうだな」なんて考えながら走っています。面白いアイデアが浮かんだときは、一度止まってメモを取ります。休憩代わりですね。そして、また走る。 そう考えると、僕にとってランニングは、単な...

骨粗鬆症は「骨の病気」だけじゃない――転ばない、折らない、動ける体を守る

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いやー、シルバーウィークですね!おかげでブログが進みます!ブログを書いていて良いのかシルバーウィーク!たまにはスプラトゥーンをしないといけません。アサリは塗りが大切仮説を証明せねばなりません。 さてさて、今回は骨粗鬆症のお話です。 「骨密度を上げる」だけじゃない  「骨密度が低いですね。骨粗鬆症の薬を飲みましょう」骨粗鬆症の診療では、こういう説明になることがあります。もちろん、間違ってはいませんが。 でも、僕自身は、それだけだとちょっとリアリティがないなと思うんですよね。骨密度の数字を上げることが、本当の目的なんでしょうか。あの、骨粗鬆症って「骨の病気」ではあるんですけど、僕はむしろ、 これから先も自分で動ける時間を守るための病気 として考えたほうが分かりやすいと思っています。特に女性では、年齢を重ねるにつれて骨粗鬆症が珍しいものではなくなっていきます。75歳くらいになると半数は骨粗鬆症でもおかしくないですね。 だからこそ、「骨粗鬆症になったから大変」というより、「これから先の生活を守るために、どう付き合っていくか」という話なんですよね。 骨粗鬆症で怖いのは「骨密度が低いこと」ではない 骨粗鬆症そのものでは、普段は痛くないことも多いです。だから、患者さんからすると、「骨がちょっと弱いだけでしょ?」という感じになりやすい。ところが、問題はその先です。骨が弱くなると、転倒などをきっかけに骨折することがあります。そして骨折すると、今まで普通にできていたことができなくなる。 歩く。買い物に行く。家事をする。外に出る。人と会う。こういう日常の一つ一つが少しずつ難しくなることがあります。 骨粗鬆症のガイドラインでも、脆弱性骨折はQOLやADLの低下につながり、健康寿命を延ばすうえで大きな妨げになるとされています。だから治療の目的は、単純に骨密度を上げることではなく、 骨折を予防して、その先の生活を守ること なんですよね。 一度骨折すると、次の問題が始まることがある 診療をしていると、骨折には一つの流れがあるように感じることがあります。最初は手首の骨折。その後、背骨の骨折。さらに大腿骨近位部の骨折。連鎖反応ですね。もちろん全員がこの経過をたどるわけではありませんが。(昔ぷよぷよで20連鎖とか狙っていたなぁ) ただ、骨折を一度経験すると、「また骨折する」という問題を考えない...