体力の限界と透析――あるケースカンファから考えたこと|佐賀市で透析終末期を支えるということ
2026/02/12 院内ケースカンファを開催しました。
テーマは、体力の限界が近づいた透析患者さんの終末期支援です。
年齢や背景は伏せます。ただ、「老衰の要素が強まりつつある透析終末期」という状況でした。
「透析やめたら1週間で亡くなるっていう感覚、あるよね。」
透析医療には独特の時間軸があります。抗がん剤をやめてもすぐに亡くなるとは限らない。しかし透析は違う。止めれば短期間で命に直結する可能性が高い。
この“時間の圧力”が、意思決定を難しくしている気がします。
■ 透析終末期の構造的な難しさ
透析終末期(透析 終末期)は、単なる治療継続の問題ではありません。
・移動の負担
・血圧低下
・除水と栄養状態のバランス
・胸水や感染症
・そして家族の葛藤
会議ではこういうやりとりがありました。
「透析はするけど、見た目上してるだけで、ほとんど引けてない状態だよね。」
「食事入らないから血圧どんどん下がる。引っ張るものがない。」
医療的には“できる”。でも身体は“ついていけない”。ここに、透析終末期の本質があります。
■ “できる医療”をやめられない文化
日本の医療文化には、「できる医療はやめない」という空気があります。
やめる=手を抜く、やめる=見捨てる
そう感じてしまう。しかし本当にそうでしょうか。透析を続けることが、その人のトータルのハッピーさにつながっているのか。移動の負担、通院調整、介護タクシー手配、家族の疲労。
「なんでこんなギリギリまで透析を続けるんだろうって思った。」
会議では、こんな率直な声も出ました。批判したいわけではありません。構造がそうさせるのです。透析は“止めた瞬間”が明確すぎる。だからこそ本人も家族も気持ちは揺れる。
■ 意思決定は、直線ではない
「最初はやめたい2割、行きたい8割。最後は逆転した。」
意思決定は一回で終わりません。毎回揺れます。
「今日は行く。でも追加は行かない。」「やめたいけど、家族が心配するから。」
在宅医療の現場では、こうした揺らぎが日常です。方針が曖昧なまま在宅に振られることもあります。しかし実際は、医療者の曖昧さというより、本人と家族の気持ちが揺れている。その揺れを“構造として理解する”ことが重要です。
■ 二主治医体制のリアル
透析主治医と訪問診療医。二主治医体制は、時に情報共有がネックになります。今回はメディカルケアステーション(MCS)を活用しました。
「タイムラグなくやり取りできたのは大きかった。」
ICTは単なる便利ツールではありません。終末期では“判断の速度”が質を左右します。透析医のイニシアチブを尊重しながら、在宅側は急変時のバックアップと環境調整を担う。
透析終末期の在宅調整、コラボレーションもありだと思います。在宅医療が補完できる可能性もあります。
■ 家族にとっての透析
家族は揺れます。「透析やめたら死ぬんでしょ?」その恐怖は当然です。
一方で、通院負担や介護負担も現実です。子どもが帰省して、少し気持ちが持ち直す。しかし長期化すると疲労は蓄積します。やめる・続けるの最終判断は主治医と本人のもの。だけど、現実的に家族の気持ちと介護力も必要。訪問診療医は、その決定を支える立場です。
良くこんな形で表現しています。大将は患者さん自身。ただ、参謀として医者も家族もいる。参謀の意見も聞かないと協力してくれなくなる。
■ ケアマネージャーの視点
透析終末期+在宅医療のケアマネージャーは大変です。環境調整は、終末期の質を左右します。
・介護タクシー手配
・急変時の動線
・入院するか自宅で看取るか
「急変したらどうするの?」この問いに即答できる体制は、家族の安心感につながります。
透析患者の訪問診療(透析 訪問診療)は、単なる医療行為ではありません。急変リスク管理と環境設計の仕事です。
透析の問題というより、体力の限界が来た人の看取り
おそらく以前より透析患者さんも増えており、良い管理により予後も改善している印象です。腎臓より体力が先に尽きてくるひとも増えるでしょう。
透析をやめたから亡くなったのではない。体力の限界が来ていた。透析はそのプロセスの一部にすぎない。
■ 透析終末期の意思決定構造を可視化する
今回の学びを構造化すると、
1.時間圧力(やめたら短期間で亡くなる可能性)
2.家族の恐怖と罪悪感
3.文化的な“やめられなさ”
4.身体的限界
5.二主治医間の役割整理
この5つが絡み合います。
透析終末期のACP(透析 ACP)は、単に「やめるかどうか」を決める作業ではありません。揺れを前提に、繰り返し確認するプロセスだなと改めて確認しました。
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