人は能力で決まるのか、環境で決まるのか。人類の歴史から考えたこと

人員配置が厳しい中、金曜日が終わりました。明日の土曜日を穏やかに過ごしたいところです。

今日の一句「ランの後 冷たい空気と 熱いお湯 生き生き感じる 秋の朝風呂」

もうそろそろネタ切れになりそうなので、今日の一句がなくてもご容赦ください。朝が冷えてきましたね~!熱いお湯もこれまた気持ちいい。おでんや鍋料理も美味しい季節になってきました。

人の能力よりも、環境の影響が大きいのかもしれない

今日は個別指導をの話からうってかわって『銃・病原菌・鉄』の下巻の読書感想文ですね。

読んでいて一番印象に残ったのは、人間の能力そのものに大きな差があるというよりも、置かれた環境によって、その後の発展が大きく変わるという考え方です。この本では、なぜ地域によって文明の発展に差が生まれたのか、という問題が扱われています。そこには、銃や病原菌、鉄といった技術や資源を手に入れやすい環境だったかどうか、という要因が関係しています。

つまり、ある集団が繁栄したからといって、その集団の人間がほかの集団よりも本質的に優れていたとは限らない。そもそも、発展するための条件が違っていたのではないか、ということです。

この考え方は、個人的には好意的に受け止めました。人の能力や努力だけで、その人の現在の状況を説明することは難しいと思うからです。能力があっても、環境に恵まれなければ、十分に力を発揮できないことがあります。逆に、環境が変わることで、それまで発揮できなかった能力が伸びることもあるでしょう。

これは、人類の歴史だけの話ではないと思います。

日々の生活の中でも、仕事がうまくいかず、精神的に落ち込んでしまう人を見てきました。そういう人を見ていると、本人の能力や努力だけで物事を判断することには限界があると感じます。

もちろん、環境を変えれば誰もが必ずうまくいく、という単純な話ではありません。それでも、今うまくいっていないことが、その人の能力の限界を意味するとは限らない。

そう考えられることには、意味があると思います。私はピグマリオン効果や自己達成予言の効果を、多分他の人より比較的高めに信じていますので、環境次第では変われるという可能性は残しておきたいですね。

それでも、人の性格には変わりにくい部分がある

一方で、人間の性質は環境だけで簡単に変わるものでもないように感じています。例えば、清潔さ、明るさ、正直さといった特性です。先日、一緒に働きたい人とは?!みたいなブログを書きました。その徳性ですね。

もちろん、こうした性質も、経験や教育によって少しずつ身につけたり、改善したりすることはできるでしょう。ただ、環境を変えれば、それだけで大きく改善するとは限らないと思っています。

子どもの頃の行動パターンや、親との愛着関係から形成される他者への信頼感、不信感なども、その後の性格に関係しているのかもしれません。ここは個人的な仮説で、今回の読書から直接導かれる結論ではありません。

一方、先日のチベット旅行記には、チベット人の徳性について書かれていることもありました。若干日本人賛美な感じもしましたが、人種により徳性が異なることが書かれているところもありましたから、徳性も環境によって変わるのかもしれませんね。

人は環境によって変わる。しかし、変わりやすい部分と、変わりにくい部分がある。この両方を考えておく必要があるのだと思います。

環境のせいにして本人の努力を否定するのも違いますし、本人の努力不足として片づけてしまうのも違う。その人が置かれている環境と、本人が持っている特性の両方を見ることが大切なのではないでしょうか。

人間は、本当に進歩してきたのだろうか

もう一つ、読んでいて恐ろしさを感じたのは、人間の凶暴性についてです。人間がそれまで人のいなかった土地に進出すると、そこにいた大型動物が次々に姿を消していく。人間が進出した地域で、大型動物の絶滅が起きてきたという話は、人間という生き物の一面をよく表しているように思いました。さらに、狩猟採集をしていた人々と農耕をする人々が接触したとき、農耕民が狩猟採集民を追い出したり、殺害したりすることもありました。なんかイメージとは違いますよね。狩猟民族の方が野蛮な感じがしますが、歴史的には違うわけです。

人間は知恵を使い、技術を発展させ、社会を作ってきました。しかし、その発展の過程には、暴力や征服、他者から資源を奪う行為も存在していたわけです。人類は進歩してきた。それは間違いないでしょう。ただ、技術や制度が進歩したことと、人間そのものが本質的に善良になったことは、別の話なのかもしれません。

では、現代社会では人間の暴力性は抑えられているのだろうかと考えてみました。確かに、目の前の相手を殴ったり、殺害したりするような暴力は、法律や社会制度によって制限されています。しかし、暴力そのものがなくなったわけではありません。今はインターネットがあります。大勢の人が一人の人間を攻撃する、いわゆるネットリンチも起こります。物理的な暴力が抑えられる一方で、情報とネットワークを使った攻撃が生まれている。社会が複雑になったことで、暴力の形も変わってきたのではないかと思います。人間は社会を作ることで、個人同士の暴力を抑えてきたのかもしれません。しかし、その社会のネットワーク自体が、別の形の暴力を生み出すこともある。

文明の発展を、そのまま人間性の進歩と考えることには、少し慎重でいたいと思いました。

多様性は、社会を強くする。ただし、運営は難しくなる

本の中で興味深かったのは、地域や社会の違いが、技術や科学の発展にも関係しているという点です。例えば、中国の科学技術がヨーロッパに対して相対的に停滞した理由の一つとして、統一された国家体制の影響が指摘されていました。中央の判断である技術や活動が禁止されたとき、広い範囲が一斉にその方針に従ってしまう。一方、複数の国家が存在する地域では、一つの場所で禁止されたことでも、別の場所で続けられる可能性があります。

もちろん、科学技術の発展にはさまざまな要因があり、国家の統治体制だけで説明できるわけではありません。それでも、複数の選択肢が残ることには意味があると思います。

これは組織運営にも通じる話です。多様性があれば、さまざまな考え方や方法を試すことができます。一つの方法がうまくいかなくても、別の方法が残っていれば、そこから発展する可能性がある。

ただし、多様性にはコストもあります。工場で一つのラインから同じ製品を作るのと、四つのラインでそれぞれ異なる製品を作るのとでは、管理の複雑さが違います。人や考え方が多様になるほど、調整や意思疎通に手間がかかります。社会や組織を強くすることと、運営を効率化することは、必ずしも一致しません。

では、どうすればよいのでしょうか。個人的には、余力があるなら、一見すると馬鹿げているように思えるアイデアにも、少し投資してみる価値があると考えています。ただし、無制限に投資するわけではありません。試すための資源をあらかじめ決め、一定期間後に継続するか撤退するかを判断する。例えば、1年間試してみて、うまくいかなければやめるという方法です。多様性を残すことと、経営資源を守ること。その両方を考える必要があります。

好奇心から始めたことが、後になって役に立つ

今回の読書で、技術は必ずしも必要性から生まれるのではなく、好奇心から生まれることもある、という点も印象に残りました。何かに困っているから、その解決のために技術が生まれる。そういうことも当然あります。ただ、「これをやったら面白そうだ」「仕組みを知りたい」という好奇心から始まり、後になって役立つものもあるはずです。

私自身、20代の頃にファイナンシャルプランナー2級の資格を取得しました。祖父母が亡くなるタイミングで、相続やお金の動きに興味を持ったこと。それから、給料をもらうようになり、ただ貯金するだけでなく、もっと有効に活用するにはどうすればよいのかと考え、投資に関心を持ったことがきっかけでした。

当時は、医療に直接役立てようと思って資格を取ったわけではありません。しかし、今になって考えると、お金について学んだことは、患者さんにとって費用対効果のよい治療を考えることにもつながっています。治療には効果だけでなく、費用もあります。医学的に有効な治療であっても、患者さんにとって経済的な負担が大きければ、簡単には選べないこともあります。治療費について事前に説明し、患者さんが感じる経済的な負担や不安を把握することも、医療の一部だと思います。

一方、カラーコーディネーターの資格も取得しましたが、こちらは正直なところ、日常生活で大いに活用しているとは言えません(笑)私の服装も、特におしゃれに気を使っているという感じではありません(ほぼのびた君)。

それでも、色彩の基礎を学んだ経験は残っています。スライドを作るときなどに、何らかの形で役立っている可能性はありますし、今後、別の場面で役に立つかもしれません。

学んだことが、すぐに成果につながるとは限りませんからね。だからといって、現在の役立ちやすさだけで、学ぶ価値を決めてしまうのも違うと思います。もちろん、時間もお金も有限です。何にでも無制限に投資するわけにはいきません。それでも、好奇心から始めた学びが、思いもよらない形で後からつながることはあるのだと思います。

新しい技術を取り入れることが、必ずしも効率化ではない

ただし、新しい技術なら何でも取り入れればよい、というわけでもありません。新しい技術や仕組みは、基本的には何かを効率化するために作られています。実際に効率的になることも多いでしょう。しかし、新しい仕組みを導入すると、それに伴って別の作業が発生したり、既存の仕事の流れを変えなければならなくなったりします。一つの部分を効率化したつもりが、全体としてはかえって手間が増えてしまうこともあります。つまり、導入した技術だけを見ていても、全体の効率は分からないということです。局所最適、全体不適になるのは意味がありません。

医療の現場でも、何かを導入することばかり考えるのではなく、今ある仕事のうち、何をやめられるかを考えることが重要だと思っています。例えば、業務の頻度や手順を見直すことです。これまで当たり前に続けてきた作業でも、本当にその頻度で必要なのか、もっと簡素化できないのかを考える余地があります。例えば、レセプトチェックをしすぎるのは止めています。

もちろん、医療安全や法令上必要な業務まで安易に省くことはできません。しかし、必要性を十分に検討せず、慣例だからという理由だけで続けている仕事があるなら、見直す価値はあるでしょう。新しい技術を導入することと、不要な仕事をやめること。効率化を考えるときには、この二つを区別する必要があります。

そして、少子高齢化が進み、人手や財源に限りがある現代では、特に費用対効果が重要になると思います。新しい技術を導入しても、それに見合う効果が得られなければ、かえって組織の負担になります。技術を取り入れること自体を目的にせず、何を改善したいのか、どれだけの効果が見込めるのかを考える。その判断が必要です。

情報があふれる時代だからこそ、基礎教養が必要になる

今回、人類の歴史を読んで、人間の本質や、社会全体の大きな流れを少し垣間見ることができたように感じました。そして、インターネットがあれば情報をいくらでも手に入れられる時代だからこそ、リベラルアーツ、つまり幅広い基礎教養が重要なのではないかと思いました。情報をたくさん持っていることと、その情報を正しく理解できることは違います。

人間には、もともと認知バイアスがあります。自分が信じたい情報を重視したり、自分の考えに合わない情報を軽視したりする傾向です。そこに、インターネットのアルゴリズムが加わります。利用者の関心に合った情報が繰り返し表示されることで、自分の考えに近い情報ばかりに触れ、特定の見方が強化されてしまう可能性があります。情報が増えれば、必ず判断が正確になるわけではありません。むしろ、偏った情報を大量に受け取ることで、誤った判断に自信を持ってしまうこともあり得ます。だからこそ、統計学的な考え方や、歴史、社会、哲学などの基礎教養が必要なのだと思います。

ちょっと、今回の本とは話題が異なりますが、マーケティングについて学ぶことも役に立ちますよ。マーケティングの仕組みを理解していれば、自分が何かを欲しいと思ったとき、それが本当に自分の必要性から生じたものなのか、それとも情報の見せ方や心理的な働きかけによって欲しくなったのか、一歩立ち止まって考えられるかもしれません。これは、マーケティングを否定するという話ではありません。人の心理を理解して情報を届けること自体は、社会のさまざまな場面で行われています。

ただ、情報を受け取る側にも、その仕組みを理解する力があった方がよい。情報を集める能力だけでなく、情報を疑い、比較し、適切に判断する能力も必要なのだと思います。

環境に適応することと、自分で考えること

『銃・病原菌・鉄』を読んで考えたことを振り返ると、人間の発展には、個人の能力だけでは説明できない環境の影響があるということです。そして、人間の性質には変わりにくい部分がある一方、技術や制度、学びによって変えられる部分もあります。

環境を変えることで、人が持っている力を発揮しやすくなるかもしれない。好奇心から始めた学びが、後になって思いもよらない形で役に立つかもしれない。多様な考え方を残すことで、今は見えていない可能性を失わずに済むかもしれない。と学んだ本でした。

(引用:アニメ「ガンダムUC」)

ニュータイプもただ一人の性質ではなく、宇宙環境から導かれた進化なのかもしれません。「人の可能性を信じたい。」んですよ。僕は。ちなみにわたくしはニュータイプとは全く言えない鈍感タイプです。「見え…ない…っっ!!」

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