「主と共に生きることを学ぶ 死すべき者たちの哲学」を読んで


尊敬する在宅医療の先輩医師鐘ヶ江先生から勧められたことが、この本を手に取ったきっかけでした。

死とともに生きることを学ぶ 死すべきものたちの哲学 第2版 竹之内 裕文 (著) 

本書を読み始めてまず感じたのは、普段私たちが接している医学書や論文とはかなり異なる本だということです。

医療の世界では、統計学や疫学を用いて効果や程度を評価し、その結果を積み上げながら知識体系を構築していきます。私自身も理系的な思考に慣れているため、「どれくらい効果があるのか」「何%改善するのか」といった視点で物事を考えることが少なくありません。

一方、本書はそうした本ではありません。ただし、だからといって根拠のない随想集というわけでもありません。

著者はさまざまな哲学者や思想家、実践者たちの考えに触れながら、自らの思考を深めていきます。統計解析はありませんが、先人たちの思考の上に新たな思考を積み重ねていくという意味では、ある種の質的研究に近い側面もあるように感じました。

本書から学べるのは「効果」や「程度」ではありません。「そういう考え方もあるのか」「そんな死生観もあるのか」「人はそういうふうに生きることもできるのか」そうした思考の多様性です。

医療者は正解を探す訓練を受けています。しかし本書は、正解を提示するのではなく、問いを増やしてくる本でした。

老人ホームは本当に「ホーム」なのか?

その中で最も印象に残ったのは、「施設」と「ホーム」の違いについての視点です。施設では、どうしてもサービス提供者が主体になりやすくなります。安全性、効率性、リスク管理を考えれば当然です。

しかしホームでは、本来はそこに住む人が主体になります。医療や介護は、その人の人生を支えるための存在であって、人生の主役ではありません。

この視点は、在宅医療を行う中で私自身が感じていた違和感を言語化してくれました。医療や介護のサービスが十分整っていても、どこか病院の延長線上のように感じる場所があります。一方で、必ずしも完璧な環境ではなくても、その人らしい生活が営まれている場所があります。

その違いは設備や人員配置だけではなく、「誰が主体なのか」という問いにあるのかもしれません。

精神科病床から地域へを受けて

また、この視点は精神医療にも通じるものを感じました。近年、精神科病院から地域へという流れが続いています。私はこれまで、その背景を制度や医療政策の問題として捉えることが多かったのですが、本書を読んでいるうちに別の見方もできるのではないかと思うようになりました。

病院は本質的にケア提供者が主体となる場所です。一方で地域やホームは、生活者が主体となる場所です。精神科医療の地域移行も、単なる病床削減政策ではなく、「誰が人生の主体なのか」という問いとつながっているのかもしれません。

制度が先行しても、文化がついていかないと行き詰まる

もっとも、ここで私は一つの疑問を持ちました。本書ではヨーロッパを中心とした事例が紹介されます。理念としては共感できます。しかし制度やコンセプトだけを輸入しても、同じ結果になるとは思えませんでした。

なぜなら制度は文化の上に成り立っているからです。

行政だけが社会を作るわけではありません。行政を動かしているのも市民です。そして市民の価値観が行政を形作っています。ヨーロッパで成立している共同体や看取りの文化は、長い歴史の中で育まれてきた市民文化や宗教観、共同体意識によって支えられています。一方、日本では自ら選択した政治や制度の影響を受けながらも、その結果について他責的になりやすい側面があります。

これは政府への信頼の違いなのかもしれませんし、市民社会の成熟度の違いなのかもしれません。だからこそ私は、本書を読みながら次のように考えました。

情報だけを持ち込んでも社会は変わらない。制度だけを変えても文化は育たない。

ヨーロッパから輸入しなくても

背景にある価値観や共同体意識を育てなければ、本当の意味での変化は起こらないのではないか。その意味で、私はヨーロッパの文化を無理に輸入する必要はないとも感じています。むしろ本書の中で私が親和性を感じたのは、農村での暮らしや死生観、そしてマタギ文化について語られていた部分でした。人は自然の一部として生きる。

生と死は分離されたものではなく連続している。死者は共同体から消えるのではなく、共同体の記憶の中に残り続ける。こうした感覚は、日本人がもともと持っていた神道的な世界観や仏教的な死生観とも重なるように感じます。

新しい文化を輸入することも大切ですが、日本にもともと存在していた文化や共同体の力を見直し、育てていくことも同じくらい重要なのではないでしょうか。

バケットリストの見直し

本書では、死について考えることは生について考えることだと繰り返し語られます。私自身、この本を読む前にバケットリストを見直しました。一見するとバケットリストは「生きている間にやりたいこと」の一覧です。しかし見方を変えれば、「どう死にたいか」を考える作業でもあります。

死を考えることは必ずしも暗い作業ではありません。むしろ今の生き方を見直す作業なのかもしれません。

死を過度にネガティブに捉えない

また、医療現場への示唆も多くありました。私たちはACPやDNARの確認を行います。これは重要な実務です。しかし本当に大切なのは、その先にある対話ではないでしょうか。「何をしないか」だけではなく、「何をしたいのか」「何ができるのか」「何を大切にしているのか」を聞くこと。死をネガティブな出来事としてだけ捉えず、生き方の延長線上として捉えること。そうした対話が、本人らしい暮らしや看取りにつながるのだと思います。

主体性のないときには!?

一方で、本書に対する疑問も残りました。本書では主体的に死を考えること、哲学すること、対話することの重要性が語られています。しかし在宅医療の現場には、認知症が進行し、自らの思いを言葉にすることが難しい方が数多くいます。

そのような方々の死を私たちはどのように考えればよいのでしょうか。また、死の哲学だけでなく、老いの哲学についてももっと聞いてみたいと思いました。

それでも本書は非常に価値のある一冊でした。看取りの技術を学ぶ本ではありません。生き方や看取りに対する視野を広げ、多様な価値観に触れることができる本です。そして、私たち医療者が患者さんやご家族だけでなく、自分自身とも出会い直すきっかけを与えてくれる本でもあります。

「哲学をして、対話をしていくことで、すでに出会った人たちと、また自分自身と出会いなおす」

(引用:漫画「チ。」)
本書の中で印象に残った言葉がです。出会いなおす。対話の中で新たな一面を発見したときの面白さが詰まっているフレーズだと思います。

医療とは、人と人との営みです。だからこそ最後に、この本から得た問いを皆さんにもお渡ししたいと思います。

あなたは今の時間を大切に生きていますか。
そして、自分にはまだ長い時間が残されていると誤認していないでしょうか。

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