悪人
本当はサプライチェーンマネジメントの記事を書いていたのですが、進まない進まない。Geminiさんと一緒に学びましたが、難しい難しい。一休み一休み。
ってことで、今週末は選挙!3連休の真ん中にして投票率を下げている!!ワタクシ、土曜日も月曜日も仕事なので1連休ですからお気になされず。
さて、ネットを開けば、「医者は儲けすぎだ」「医療費が国家財政を圧迫している」といった言葉が並びます。(財務省さん、感情的にしすぎですよ?)選挙の季節には、候補者が「社会保障費が財政を食い潰している」「医療費の無駄を削減しなければ日本が沈む」と議論がネットで拡散されているのを、昼ご飯をかきこみながら見ております。
けれど、医療の現場は、そうした光景とは対照的です。私たちは、日々、患者さんの身体と生活、感情に寄り添い、どうすればその人らしく過ごせるかを考え続けています。便利なシステムも人工知能も、最後に患者のそばにいるのは人間の手と声です。夜間に呼び出されても、ターミナルの現場でも、誰かの人生の傍らに立つ仕事。それが医療職、介護職です。
なのに、社会の一部からは、まるで「無駄遣いの元凶」のように語られるのはいささか辛い。鈍感力が強い私が答えるので、共感力の高い医療関係はより辛いのでは?と思いを馳せております。そのたびに、真面目に働いている人たちが、何かを失っていく気がしてなりません。いや、現実的に真面目に働いている看護師さん介護士さんたちは、失望して現場を離れております。
「賃上げしても社会保険料で消える」は本当か?
近年、「給料が上がっても社会保険料が全部持っていく」といった声が強まっています。2024年4月には『日本経済新聞』が「賃上げ、社会保険料に消える」と報じ、社会に大きな波紋を呼びました。
このフレーズは、生活実感に寄り添うようでいて、実際には誤解を招く表現です。総務省の「家計調査」によれば、39歳未満の勤労世帯では、2018年から2024年の6年間で月額社会保険料は約6,200円増加しましたが、同期間に世帯主収入は33,341円増加しています。保険料の増加はその18.6%にとどまり、収入の大半はきちんと可処分所得として手元に残っているのです。(経理・総務をしている方なら当然ご存知ですが、保険料率が18.3%だからですね)
会社が社会保険料の半分を負担していますから、それを手取りにすれば…って気持ちも分かります。また、保険料の上昇が暮らしに影響を与えているのは事実です。しかし、それを「賃上げが意味をなさない」と断じてしまえば、社会保障制度そのものへの信頼を損ねかねません。必要なのは、短絡的な否定ではなく、仕組みの中身を丁寧に見ていく冷静さです。
医療費は本当に高すぎるのか?
「このままでは医療費で国が破綻する」という言葉も、繰り返し語られます。しかし、データを見れば、むしろ逆の実態が浮かび上がります。
第一生命経済研究所の分析「高齢化による財政負担の国際比較」によれば、日本の高齢化率は2025年時点で30%と、世界的に見ても突出しています。にもかかわらず、医療・介護・年金を含む高齢者向け支出のGDP比は20.5%にとどまり、同程度の高齢化率を持つ国なら24~25%になることも珍しくありません。つまり、日本は「高齢化に対して極めて効率的に社会保障を運用している」国だと考えるのが妥当ではないですか?
しかも、これは医療の質を犠牲にしてのことではありません。高度な救急体制、地域に根ざしたかかりつけ医、そして手厚い在宅ケア。それらを実現しながら、なおも支出を抑制している。これは、奇跡に近いバランスです。一番犠牲になっているのは診察時間かも?
先日ブログにも書いた低価値医療の論文も見てくださいね。低価値医療を提供しているのは1割の医者ですよ?
医療費が増えるのは「善意の進歩」の結果である
医療費が増えるのは、誰かが無駄遣いをしているからではありません。
むしろ、その多くは「医学の進歩」や「社会の高齢化」といった、避けがたい変化によるものです。たとえば、がんや難病への革新的な薬剤の登場、高度な手術や再生医療の実用化といった「医療の高度化」は、命を救う選択肢を増やす一方で、当然ながら費用も増大させます。事実、医療保険制度において、年間医療費の6~7%を占める「高額療養費」は年々増え続けており、その自己負担限度額は長らく据え置かれています。(だからこそ負担率上昇の議論に至っているとも言えますが)
その結果、医療保険全体の実効給付率は上昇しています。――つまり、医療費の増加とは、私たちがより長く、よりよく生きられるようになった証でもあるのです。それをただ「削るべきコスト」と見なすのか、「支えるべき価値」として捉えるのか。社会としての成熟が、いま問われています。
「効率」の裏で誰が支えているのか
この高いコストパフォーマンスの裏には、医療従事者の努力と献身、そして「安い報酬」があります。日本の医療・社会福祉分野における平均時給は、全産業平均より15.5%も低く、これは構造的に固定されています。医療報酬は公的価格で決まっており、どれだけ責任が重くても、どれだけ忙しくても、自由に価格を上げることはできません。そりゃ離職率高いわ…。
また、他国と異なり、日本は外国人労働者に医療・介護を大きく依存していません。ドイツやスイスでは10%以上の比率で移民労働力を受け入れているのに対し、日本ではわずか1.3%。つまり、安価で柔軟な労働力に頼れないなか、日本人自身が過重な責任を担って現場を支えているのです。
それでもなお、報酬は高くならない。むしろ、「医療費を削れ」という言葉ばかりが飛び交う現状。この状況を「持続可能」と呼べるのでしょうか。今回の選挙では、医療費の削減と共に外国人批判も出ていましたが、じゃーどーすんの?と言いたい気分です。(書いてます)
自らの行動が風を強くしていることもある
とはいえ、医療者がただ「かわいそうな被害者」であると主張するつもりはありません。私たち自身が、自分たちへの風当たりを強めてしまっている場面があることも、見逃すべきではないですよね。
とくに一部の医師がSNSで発信する、過剰な自己顕示は、その一例です。高級車、豪邸、ブランド品。そうしたものを誇らしげに投稿し、「医師になれば勝ち組」といった空気を醸す発信は、見る人によっては反感の種になり得ます。もちろん個人の自由はありますが、ああした行動が「医者=金持ち=ズルい」といったステレオタイプを補強し、業界全体の信用を揺るがす一因にもなっています。ニーズや制度に過剰適応してしまう医師もいますけど、ずるいと思うこともありますが、一応ルールは守ってやっています。
承認欲求や目立ちたい欲求。それが行き過ぎると、気づかぬうちに自分自身の首を絞めることになります。金の使い方には、その人の価値観と人格が表れる。だからこそ、私たち医療者自身も、社会との信頼関係の中でどう振る舞うべきかを、常に問い続ける必要があるのです。
国民の意識は、静かに「負担を受け入れている」
政治の場やメディアでは、「国民はもう負担に耐えられない」「誰もが社会保障に不満を持っている」という前提が語られます。しかし、実際の調査データは、少し違った風景を示しています。
厚生労働省の調査(2022年)(P31)では、「負担増もやむを得ない」と回答した人が49.6%と過半数を超え、「給付を下げて今のままの負担でよい」という回答(7.6%)の数倍に上っています。特に20〜30代といった若年層でも、その傾向は見られます。
また、日本医療政策機構が2024年に実施した調査でも、「経済的な負担が増えても医療サービスを維持すべき」という回答が56.6%に達しました。つまり、国民の多くは、負担ゼロを求めているわけではない。「持続可能な制度を支えるために、一定の覚悟を持っている」。それが、今の日本の民意だと思うんですよ。
声の大きさではなく、静かな多数にこそ耳をすませて
選挙が近づくたびに、「医療費削減」がスローガンとして踊ります。ですが、それは果たして、本当に求められている政策なのでしょうか。目立つ声に引っ張られて、本当に守るべきものが見えなくなっていないでしょうか。
政治家に求められているのは、声の大きな一部に迎合することではなく、静かに覚悟を決めて支えている多数の声に耳を傾けることではないでしょうか。
医療者の努力が報われず、医療費ばかりが「削減対象」とされる風潮の中で、誰がこの社会を支えていくのでしょうか。必要なのは、適正な評価と冷静な議論です。
医療者へ、そして私たち自身へ
医療・福祉・介護の現場で働く皆さんに、あらためて伝えたい。
あなたの努力は、社会にとってなくてはならないものです。目立たなくても、華やかでなくても、その献身が社会の健康を守っています。どうか、ネットの声に過度に心を痛めないでほしいなと思っています。
ただし、何と言われようとも効率的に医療を提供すること。これは努力し続ける必要があります。
そして、政治家やメディアに問いたい。
言葉は力を持ちます。だからこそ、言葉に責任を持ってほしい。医療を「悪者」にしないでほしい。制度をより良くするための議論なら、私たちは耳を傾けます。ただし、それが「誰かを叩くことで得られる喝采」であってはならないのです。
最後に、この言葉を引用して締めくくります。
「そもそも悪は善より感じが深刻です。
善というものは生命の発展に従うものですから、柔順な感じです。刺激がない。素直です。悪というものは生命の本流に抗するもの、逆行するものですから、どうしても感じが強く、身にこたえます。薬でも本当の良薬は生命を助長して副作用がない。効果も遅い。病の局所攻撃をする即効薬というものは、刺激が強く、副作用もひどい。まして毒薬ではたまりません。
およそ人々は善に対してはあまり感じません。悪に対して非常に強く感じます。人間も概して悪人は強い。善人は弱い。」
――安岡正篤
誰もが刺激に惹かれ、怒りの声に共鳴しやすい時代です。
しかし、静かに、誠実に、誰かを支える善意こそが、この社会を根底で支えていることを、私は忘れていません。
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