健康になれないのは、本人の努力が足りないからなのか

今日の一句「秋風の ふわり舞い込む デイサービス 笑い合う声 漏れ聞こゆ」(美則にて)。どうでしょうか!?なかなか我ながら良い句。さて、今日はクリニックのIDが15000人というキリ番でした~!私が院長になったときは9000番台だったかな?

ご愛顧ありがとうございます。

健康になれないのは、本人の努力が足りないからなのか

さて、今回も読書感想文。今回の本は、『銃・病原菌・鉄』という本を読んでいます。ジャレド・ダイアモンドという著者が、人類の歴史を1万3000年という長い時間軸で捉え、なぜ地域によって社会の発展に差が生まれたのかを考察した本です。まだ上巻を読んだところですが、いろいろと考えさせられましたのでまとめていきたいと思います。

特に印象に残ったのは、人間の能力だけではなく、置かれた環境が社会のあり方を大きく左右するということです。私たちは、健康になれない人に対して、本人の努力が足りないと考えすぎているのではないでしょうか。

人間の努力だけで、結果は決まるのか

糖尿病や肥満症の診療をしていると、生活習慣について考える機会がたくさんあります。食事を見直す。運動する。タバコをやめる。健康のために必要なことはいろいろあります。

ただ、同じように取り組もうとしても、人によってできることは違います。例えば、30分歩くことを考えてみます。30分歩くのは大したことではないと思う人もいれば、それだけで大変だと感じる人もいます。普段から1時間走っている人もいるでしょう。そもそも、本人にとっての努力の量が違うのです。遺伝的な違いもあります。同じように食べていても、体重の変化には個人差があります。

もちろん、だからといって生活習慣を改善する意味がないわけではありません。ただ、結果だけを見て「あの人は努力したから健康になった」「この人は努力が足りないから健康になれない」と簡単に判断することには、少し注意が必要だと思います。

私たちは、本人の努力を評価する一方で、その人がどのような条件の中で生活しているのかも見なければいけないのではないでしょうか。

健康を左右するのは、本人の意思だけではない

医療には「健康の社会的決定要因(SDH:Social Determinants of Health)」という考え方があります。健康は、遺伝や医学的な要因だけで決まるのではありません。所得、教育、仕事、住環境、人間関係、食料へのアクセスなど、社会的な条件も健康に影響します。

例えば、日本では炭水化物を多く含む食品が安く、簡単に手に入る環境を考えてみます。

その環境で生活する人に対して、食べる量を減らし、健康的な食生活を送るように指導することはできます。しかし、本人の意思だけに頼るのが最善なのでしょうか。健康的な食品を手に入れやすくする。運動しやすい環境をつくる。タバコを吸わずに過ごせる場所を増やす。そうした環境そのものを変えることにも、大きな意味があるはずです。タバコについても環境から攻めるエビデンスはあったと思います。

努力を否定する必要はありません。ただ、努力を求めることと、努力しなくても望ましい行動を取りやすい環境をつくることは、別の話です。私は、健康を考えるときには、この両方が必要だと思います。

尚、本では炭水化物しか手に入らない時代、地域では、タンパク質を得るために犬を食べたり、人間を食べたりしていたとのこと。そう考えるとまだ努力がしやすい時代なのかもしれません(汗)。

「努力すれば報われる」という考え方も、環境の影響を受けている

私自身、努力すれば報われるという感覚は比較的強い方だと思います。ただ、この考え方自体も、自分が育ってきた環境の影響を受けているのかもしれません。もし戦時中に生まれていたら、今と同じ考え方をしていたでしょうか。東京で育った場合と、佐賀で育った場合では、ものの見方が違っていたかもしれません。

もちろん、環境が違えば必ず考え方が変わるという単純な話ではありません。本人の性格や選択、経験も関係します。それでも、自分が当たり前だと思っている価値観が、実は自分の置かれた環境によって形づくられている可能性はあるでしょうね。

『銃・病原菌・鉄』では、人類社会の違いを、個々の人間の能力の差だけで説明するのではなく、地理や生物、食料生産などの条件から考えていきます。

この視点は、現代の私たちにも通じるところがあると感じました。例えば、ある環境で生きることに長けた人が、別の環境でも同じように能力を発揮できるとは限りません。私たちが慣れ親しんだ社会でうまく生活できることと、人間としての能力が高いことは、必ずしも同じではないのでしょう。

(引用:漫画「ヴィンランド・サガ」)
利用価値は環境によって異なるってことを王様は言いたいのだと思います。ちなみに、ヴィンランド・サガにはこの本にある病原菌の描写がありありと描かれています。ご覧あれ。

この本では「ジャングルに現代人を連れて行ったら、先住民から見ると能力がない人間に見えるだろう」と紹介されており頭の良さというのも環境に左右されるのだなぁと膝を打ちました。

健康についても、同じように考えられるのではないでしょうか。

人間は、環境に適応して生きている

本を読んでいて、もう一つ考えたことがあります。それは、人間も常に環境から影響を受け、適応を求められているのではないかということです。生物は、それぞれの環境の中で生きています。環境が変われば、生き残りやすさも変わります。人間社会も例外ではないでしょう。

例えば、現在の日本では少子化が進んでいます。結婚するかどうか、子どもを持つかどうかは、一人ひとりの意思に関わる問題です。そこに外部から単純な評価を加えるべきではありません。一方で、個人が自由に選択しているように見えることでも、その選択肢や判断は、経済状況、働き方、住環境、社会制度などの影響を受けています。そう考えると、少子化を個人の価値観や意思だけで説明することには限界があります。社会の側にどのような条件があり、人々がどのような選択をしやすくなっているのか。

つまり、極論ですが「子供を産まないという選択肢を取っているのではなく、環境から私たちは淘汰されている」のかもしれません。種無しバナナの話を聞いたときにハッと思いつきました。子無し人間なのかも!?と。

ただし、少子化をそのまま生物学的な意味での淘汰と呼ぶのが適切なのかは、慎重に考えなければいけません。人間の社会には、制度や文化、意識的な選択など、生物の自然選択とは異なる要因があるからです。それでも、個人の意思だけに注目していては見えてこない問題がある、という点は重要だと思います。

医療も、社会の余裕によって成り立っている

この本でもう一つ印象に残ったのは、食料生産と社会の発展との関係です。食料を安定して生産し、余裕を持って蓄えられるようになると、すべての人が食料生産に従事する必要はなくなります。その結果、行政に携わる人、兵士、技術者など、さまざまな役割を担う人々が活動できるようになります。食料という基礎があるからこそ、その上に別の仕事が成り立つわけです。まぁそして狩猟民族を皆殺しにするのですが。

これは、現代の医療にも通じる話だと思いました。医療は、いわゆる第三次産業に当たります。医師や看護師が働くためには、食料を生産する人、医療機器や薬をつくる人、物流を担う人、電気や水道などのインフラを維持する人が必要です。医療だけで社会が成り立っているわけではありません。社会のさまざまな仕事がつながっているからこそ、私たちは医療を提供できます。

クリニックの経営についても、似たようなことを感じます。まず、日々の診療という基礎的な仕事がある。その仕事がきちんと成り立っているからこそ、学会活動や新しい取り組みなど、付加的な仕事に時間や労力を振り向ける余地が生まれます。基礎となる仕事をおろそかにして、付加価値のある活動だけを増やそうとしても、うまくいかないでしょう。

社会全体でも、個々の組織でも、まず土台が必要なのだと思います。そう考えると、医療に携わる人間として、医療以外の仕事をしている人たちへの感謝も忘れてはいけないと感じます。

感染症対策は、医療だけを優先すればよいわけではない

『銃・病原菌・鉄』というタイトルにもあるように、病原菌と人類の歴史についても興味深く読みました。歴史を振り返ると、感染症が社会や人口に甚大な影響を与えた事例があります。新興感染症が流行ると、国民の50-75%が死に絶える時代もあったとのこと。新型コロナウイルス感染症を経験した私たちにとっても、感染症が社会全体に及ぼす影響は、決して遠い話ではありません。ってことで、感染症への備えは、国家として重要な課題の一つなのかと理解することができました。そりゃ国民が半分死ぬって国家の一大事に決まっています。

一方で、感染症対策を考えるときには、医療だけを切り離して考えるわけにはいきません。例えば、感染拡大を抑えるための対策が、食料生産や物流、製造業などに大きな影響を与えれば、その影響は医療にも戻ってきます。医療を支える物資や人員の確保も難しくなるかもしれません。

もちろん、これは感染症対策を軽視してよいという意味ではありません。感染症による被害を抑えることと、社会の機能を維持することを、同時に考える必要があるということです。どの程度の対策を行うべきか。その対策によって何を守り、何にどのような影響が生じるのか。

医療は重要です。しかし、医療だけが社会のすべてではありません。社会のさまざまな機能が支え合っているという前提を忘れずに、全体を見ながら判断する必要があるのだと思います。それが政治家の役目でしょう。ご苦労さまですが。

自分の努力を認めることと、環境への感謝は両立する

今回の読書を通じて、私が改めて考えたのは、個人の努力と環境の関係です。努力することには意味があります。自分で選択し、行動することも大切です。しかし、その努力が可能になる条件まで、すべて自分一人でつくったわけではありません。生まれた時代、育った場所、周囲の人々、社会の制度、食料や生活必需品を支える産業。そうしたさまざまな条件の上に、私たちの生活があります。

だからといって、個人の努力を否定する必要はないでしょう。反対に、結果が出た人のすべてを本人の努力の成果と考え、うまくいかない人のすべてを本人の責任とするのも、少し違う気がします。

自分が努力して得たものの中にも、自分だけではつくれなかった条件が含まれている。そう考えるなら、自分が得たものを社会に還元するという考え方も、自然に出てくるのではないでしょうか。

時代と環境に感謝して、納めよう税金!(*ただし、無駄に使うのは許せぬ)

医療の仕事でも、患者さんの生活習慣だけを見るのではなく、その人がどのような環境で暮らしているのかを理解することが大切です。同時に、社会全体を良くしようとするときにも、個々の人が実際に何に困っているのかを見失ってはいけません。

大きな視点で社会を考えることと、目の前の一人を理解すること。その両方を大切にしたいと思います。合成の誤謬に注意しないといけませんね。

余談

この本で銃、病原菌、鉄だけではなく、もう一つ重要な要因を上げたい!それは動物です。家畜がいるかどうかも大きな環境要因の1つでした。食料だけではなく、農業、輸送、戦争そして、疫病にも家畜、動物が関わってきていました。これチベット旅行記でもよく描写されていました。ヤクのうんこを集めて、うんこに火をつけて暖を取るのだと。うんこって言いたいだけじゃねーかと言われそうですが。うんこくさいなんて言えない時代だったんでしょうね。(うんこ言い過ぎ)

コメント

このブログの人気の投稿

アジテーションとは“伝えきれない不安”――認知症ケアの現在地と新たな選択肢

高齢者医療に新たな選択肢:イノラス試飲レビューと活用法

うんこで死ぬ -死亡リスクが上昇する便秘に対する正しい排便ケア-