河口慧海の旅から考えた「知りたい」と「やり遂げる」の力
入院退院で受け入れ、送り出しと情報提供書を作ったりもらったりと忙しい日々です。ファイナルファンタジーVIIのリメイクを買いたいなぁと思いつつも、そんな時間がない…と諦めがちな今日このごろ。昔は、ミニゲームも楽しめていたのに煩わしさをはんなり感じています。年を取ったということでしょうか。
さて、今回はチベットRPGとも言える河口慧海さんのチベット旅行記についてです。
命をかけて、知りたいものを見に行く
この本を読んで一番強く感じたのは、「ここまでして知りたいのか」ということでした。
慧海は、仏教を学ぶためにチベットを目指します。今の感覚からすると、とんでもない旅です。ヒマラヤの脇を越えていくわけですが、私が勝手に想像していたのは、ものすごい装備をして、トレーニングを積んだ人が登っていくような姿でした。
ところが、実際には現地の服を着た僧侶が山を越えていく。「そんなものなんだ」と、ちょっと驚きました。もちろん高山病にもなって、雪盲症にもなって医者的にはいわんこっちゃない感がありますが。
そして、何よりすごいと思ったのが、慧海の「勉強したい」という気持ちです。法律を破ってでもチベットに入り、命をかけて学ぼうとする。そこまで思える人は、そう多くないですよね。
では、自分だったらどうするか。これは、なかなかできないと思います。命をかけてチベットまで行くことは、私にはできません。というより、私はかなりタイパとかコスパを考えて生活しています。
だから、慧海と自分は、好奇心が強いところは少し似ているけれど、程度が全然違う。根性も全然違います。氷の張った川を裸足で渡るとか、そもそも私は川を歩いて渡らないですからね。橋があれば橋を渡ります。
そのあたりは、今の現代社会では考えにくいような「やり遂げる力」がある人だったんだなと思いました。
「一次情報」を取りに行くということ
一方で、この本を読んで改めて感じたのが、一次情報の価値です。一次情報のことを最近言い過ぎていますね。今は、Googleで検索すれば、世界中の情報が出てきます。Googleマップを見れば、チベットのどこに何があるのかも分かります。実際Googleマップでチベットを見ながら本を読みました。実際はチベットのGoogleマップは少なくてポイントしか見られませんが。動画を見れば、現地の風景を見ることもできます。
それでも、慧海が実際に現地へ行って、自分の目で見て、そこで生活して、人から話を聞いている。伝え聞いた情報ではなく、自分で取りに行った情報が大量に残っています。これはやっぱり強いですよね。
もちろん、今の自分がチベットまで一次情報を取りに行くかというと、行きません。やっぱりタイパもコスパも、あまりにも悪いですから。
でも、「自分で確かめる」ということの価値は、今でも変わらないと思います。むしろ、情報が簡単に手に入る時代だからこそ、何が一次情報なのかを意識することは大切なのかもしれません。
医療も、リスクを引き受けて進む仕事
医者という仕事についても、少し考えました。医療は、どちらかというとリスク回避を重視する仕事です。訴訟を避けるための医療、という言い方をされることもあります。実際、医療には当然リスクがあります。例えば手術をするというのは、身体に侵襲を加えて、そのリスクを引き受けた上で、より良い結果を目指す行為です。自分で手術をしなくても、患者さんを手術する医師に紹介するということ自体が、ある意味ではリスクを承知した判断です。
総合診療をしていると、正解が分からないまま決めなければならないことも、かなりあります。診断が確定していない段階で、可能性の高い病態を予測して治療を始めることもあります。もちろん、その後に経過を見て、必要なら判断を修正します。
難しい判断をするとき、私が基本にしているのは、患者さん本人の価値観です。その上で、期待できる効果がどのくらいあるのか。その治療にはどんなデメリットがあるのか。それがどのくらいの頻度で起こるのか。そういったことを考えて決めていきます。
「リスクがあるからやらない」のではなく、「そのリスクを引き受けてでも得たいものがあるのか」という考え方は、医療でもあります。ただ、慧海ほどのリスクは、私には引き受けられませんね。
リスクが推し量れないときに著者は断事観三昧をやります。これが面白い。合理的な判断が行き着かないときに瞑想する。個人的には無意識層に問いかけると言うか処理させているのかなと感じました。
医師にとっての「実学」
慧海の旅で面白かったのは、彼が僧侶でありながら、医学的な技術を使って人々から信頼を得ていたことです。骨折や脱臼などに対応して、現地の人から感謝される。そこで、「実際に使えるスキル」というのは、場所が変わっても価値があるんだなと思いました。
家を建てられる。川を整備できる。病気やけがに対応できる。何かを作ることができる。そういう実務的な能力は、国や文化が変わっても価値を持ちやすい。
これは面白いことだと思います。もちろん、今の医療とは全然違います。MRIもCTもない。内視鏡もない。抗菌薬もない。そんな時代ですから、現代の医師と同じことができるわけではありません。
私自身、薬がない環境だったら、かなり困ると思います。漢方薬だけで何とかしろと言われても、なかなか難しい。その一方で、骨折や脱臼に対応するといった救急のスキルは、今でもかなり汎用性が高い。医療の進歩によって変わる部分と、場所や時代が変わっても残る部分があるんだろうなと思いました。
「恵まれている」とは何なのか
この本を読んで、今の生活が恵まれていることも改めて感じました。寒い雪の中で寝る。寒くて眠れないから、お経を唱えて一晩を過ごす。今の日本で暮らしている私たちからすると、かなり厳しい環境です。衣食住や感染対策などを考えれば、私たちの生活の方が圧倒的に恵まれています。
ただ、そこで少し気になったことがあります。チベットの人たちは、恵まれていないからこそ、それを受け止めているようにも見えるんです。「仕方がない」「そういうものだ」「神様が決めたことだから」そうやって受け止めていく。
もちろん、これは本に描かれた当時の社会についての私の受け止め方であって、チベットの人たちを一括りにできる話ではありません。でも、現代の私たちには、こういう「受け止める力」が少し乏しくなっているのかもしれない、と感じました。何か問題があれば、「知識が足りなかったから」「情報弱者だったから」「自己責任だから」と考えてしまう。
もちろん、努力や知識によって改善できることはあります。でも、世の中にはどうしても、自分では変えられないことがあります。そういうものに対して、「まあ、しょうがない」と受け止める力も、人間には必要なのかもしれません。
誠実であることと、正直であること
もう一つ面白かったのが、慧海が必ずしも「完全な正直者」ではないところです。チベットに入るために、自分の身分を偽ることもある。だから、嘘をつかない人というわけではありません。でも、人に害を与えないようにする。自分が大切だと思っているものを守る。そのために、ときには正直ではない行動も取る。
これを読んで、「誠実であること」と「正直であること」は、少し違うのかもしれないと思いました。正直であることは、事実をそのまま話すことです。でも、誠実であることは、それだけではないのかもしれない。
では、その違いは何なのか。これは、まだ自分の中でもうまく言葉にできません。ただ、医療をしていると、「正直に全部話すこと」と「その人にとって誠実に対応すること」が、必ずしも完全に同じではない場面はあります。
このあたりは、もう少し考えてみたいところです。
お坊さんである著者が「ぶん殴りたい気持ちになった」と正直に表現するところが、また好きでしたね。
知識を広げることと、知識を絞ること
私は、知りたいという気持ちはかなり強い方だと思います。何か新しい情報が入ってくると、単純に「面白いな」と感じます。正直に言えば、情報を得ることにかなりドーパミンが出ていると思います。活字中毒、あるいは情報中毒に近いのかもしれません。だから、知識を増やすこと自体はあまり苦痛ではありません。
むしろ問題は、その逆です。好奇心が多すぎて、時間のマネジメントがうまくいかなくなる。これは自分の課題だと思っています。目的がはっきりしているなら、私は基本的には遠回りや非効率をあまり好みません。
でも、目的とは直接関係のない情報の中に、目的を達成するためのアイデアやヒントが隠れていることがあります。ここは難しいところです。特に今は、GoogleやSNSのアルゴリズムによって、自分と親和性の高い情報ばかりが入ってきます。自分が興味のあるもの。自分が好きなもの。自分と似た考え方。そういうものばかりを見ていると、認知の偏りが強くなります。だからこそ、ときどき自分が興味を持っていない本を読むことには意味があるんじゃないかと思っています。
『チベット旅行記』も、ある意味ではそういう本でした。
「知りたい」をどこまで追いかけるか
慧海のように、知りたいことのために人生を大きく動かすことは、今の私にはできません。自分にとって、家族や仕事など、優先順位の高いものが増えたからです。若い頃とは違います。だから、「知りたいから命をかける」という生き方をそのまま真似したいとは思いません。でも、「知りたい」という気持ちは、今でもかなり大切にしています。
その情報を得ることで何かに活かせるのか。仕事につながるのか。あるいは、直接役に立たなくても、本当に自分が知りたいと思っていることなのか。そういうところを考えながら、どこまで時間を使うかを決めています。
ただ、完全に効率だけで生きるのも、少し違う気がします。一見すると関係のない情報が、後になって別のところでつながることがあるからです。
退屈な時間に詩を読む
『チベット旅行記』の中で、個人的に好きだったのが、慧海が退屈な時間に詩を読むような場面です。これも、今の自分とは少し違います。私は暇になると、つい何か情報を探してしまいます。スマートフォンを見たり、本を読んだり、何かを調べたりする。
でも、何かを生産するわけでもなく、ただ詩を読む。そういう時間があってもいいのかもしれません。最近は、訪問診療をしながら、運転しながらいろいろ考えることがあります。そうすると、普段なら考えないようなことが、意外と面白く思えてきたりします。
効率を上げることばかり考えていると、こういう時間は無駄に見えます。でも、無駄に見える時間の中から、別の考えが生まれることもありますよね。
「やり遂げる力」は、今でもすごい
この本を一言で表すなら、私にとっては「一人の人間が、知りたいという気持ちを持って、とにかくやり遂げた旅」です。特別な装備があるわけでもない。今のような便利な情報環境があるわけでもない。それでも、言語を学び、医学的な知識を身につけ、数学なども学び、実際にチベットまで行く。
その「やり遂げる力」は、やっぱりすごいと思います。でも私自身は、もう少し効率よく生きたいと思っています(笑)。コスパもタイパも気にします。無駄なことはできるだけ減らしてスマートに生きたい。
でも、それだけでは拾えないものもある。知らない場所に行く。自分と関係のない本を読む。普段なら選ばない情報に触れる。そういう一見すると非効率な行動の中に、自分の考え方を変えるものが入っていることがあるかもしれません。
『チベット旅行記』を読んで、私が一番考えさせられたのは、チベットそのものよりも、そこまでして「知りたい」と思った人間の力でした。そして、自分はそこまでできないからこそ、せめて「知りたい」という気持ちだけは大切にしておきたいですね。
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